2015年5月11日 星期一

台湾のボラ文化➀ 日本語版  著者 荘健隆

 台湾映画《海角七号》2008台湾で公開范逸臣田中千絵主演登場する第5通のラブレターに:…遇見了要往台灣避冬的烏魚群。我把對你的相思寄放在其中一隻,希望你的漁人父親可以捕獲。友子,儘管它的氣味辛酸,你也一定要嘗一口…(台湾で冬を越すボラの群れを見たよ。僕はこの思いを一匹に託そう。漁師をしている君の父親が、捕まえてくれることを願って友子、悲しい味がしても食べておくれ…)

 のシーンで取り上げられボラの群れは台本に必要だから使われた台詞ではない。台湾総統府に勤務した大島正満さん(1884~1965)の研究によると、長崎のボラ(九州沿岸で生息している群れ)、毎年十二月上旬対馬海峡から伊万里湾に下り、彼杵半島を沿って長崎沿岸、さらに野母崎を越え、琉球諸島に着いて、黒潮本流の近くで産卵する。
つまり映画、ラブレターを書いた登場人物は1945年12月、船で日本へ帰国途中回遊中のボラ見かけたのだろ。台湾一般的に認識されているボラの回遊経路は新竹、または鹿港を通って西南沿岸を沿って、バシー海峡まで南下して産卵する。昔、日本で取れたボラは台湾よりずっと多かったという1935年のデータによると、日本国内ボラの漁獲は台湾十倍もあった。
 
 中村孝志さん(1910~1994)が書かれ「オランダ統治時代台湾南部のボラ漁業の中に「…中国南部の人たちはボラとそのお腹にある鱲子(カラスミ)が好物である…されている。台湾のボラを食べる文化は中国東南沿岸からの影響と推測される。オランダ統治時代(1624~1662)の基本史料《ゼ―ランディア城日誌(熱蘭遮城日誌)》に、課税対象として、初めてボラの旬の時期の漁獲量記録されている
 楊鴻嘉さんの研究報告によると1673年に、既に中国から、ボラを狙った漁師たちが移民として高雄市旗津区に居留しとされており、台湾のボラ漁は明帝国の時代から始まったことがわかる
ボラ食文化の起源
 中国科学院李思中さんによると河南省安陽市殷墟(いんきょ)(古代中国殷王朝BC1600 - BC1046)後期の遺構2006年に世界遺産に登録)にある厨房廃棄物の中に、ボラの骨が入っている」;「これにより、三千年前の中原地方は既に貢ぎ物か貿易の品物として、ボラなどの魚介類が食べられるようになったことがわかる。」と記されている。
 李時珍(1518~1593)が書いた《本草綱目》に東海に生まれ、腹には魚卵、黄色い脂肪が付いていて、旨みがある。東海沿岸の住民たちに珍味として扱、塩で漬け、保存食としてまた冬に食用するとある。李氏(李時珍)により、唐朝劉恂が述べていた東南沿海の住民たちがボラの卵巣んで食していたこと証明したと言える。ただし、こちらに論述しているボラ卵巣の塩漬けは、今のカラスミとは、食感、貯蔵などの点には大きく違っていると思われる


台灣的烏魚文化➀ 中文版  著者 荘健隆

電影《海角七號》中的第五封情書有下列幾句:「⋯⋯遇見了要往台灣避冬的烏魚群。我把對你的相思寄放在其中一隻,希望你的漁人父親可以捕獲。友子,儘管它的氣味辛酸,你也一定要嚐一口⋯⋯」。這裡所提及洄游的烏魚群並非劇本需要,而杜撰。事實上,按日人大島正滿(一九四〇)的說法,日本長崎生產的烏魚(本棲息於日本九州沿岸),在每年十二月上旬由對馬島南下而於伊萬里灣出現,沿彼杵半島迴游到長崎沿海,然後繞過野母岬轉至琉球列島,抵達黑潮本流附近產卵。換言之,情書作者在一九四五年十二月份返日的途中,是會看到南下的烏魚群。一般國人所熟悉的路線是,由新竹或鹿港順西南沿海南下,到巴士海峽產卵。其實早期的日本所生產的烏魚是遠超過台灣的,例如在一九三五年日本本土該魚的產值即為台灣的十倍之多。

任台北帝國大學「副手」的日人中村孝志(一九一〇~一九九四)在〈荷領時代台灣南部鯔(烏)漁業〉一文稱:「⋯⋯中國南部一帶的人們確實是很喜歡烏魚及其腹中的鯔子(卵巢)⋯⋯」。說明台灣人之食烏魚文化,乃來自中國東南沿海。不過直到荷蘭領臺後,才在荷人治台時期(一六二四~一六六二)的基本史料《熱蘭遮城日誌》中,記載著烏魚汛期的產量;這是為了課稅需要。楊鴻嘉先生(一九九五)更指出在一六七三年即有中國捕烏移民在高雄旗津區定居下來,而猜測台灣之烏魚漁業,可能始於大明帝國時代。


}食烏文化的淵源

中國科學院李思中指出「安陽殷墟廚房廢棄物中,有包括鯔魚的骨骼」;這「顯示在三千多年前中原地區已能吃到由進貢或貿易而來,包括鯔魚在內的水產品。」食用烏魚較詳細的記載則是唐唐昭宗時代河北人劉恂《嶺表錄異》所稱,廣東人喜歡吃鹽漬的鯔魚卵。李時珍(一五一八~一五九三)的《本草綱目》稱:「鯔魚生在東海,魚子滿腹,還有黃脂,味道鮮美;東海沿岸人視為佳品,醃製後留作冬用」。李氏印證唐人劉恂,說明醃製烏魚卵在中國東南沿海之受喜好。此醃漬烏魚卵應與現代的鹽乾製品——烏魚子,在成品型態、口感與儲存性上,有相當差異。

}台灣烏魚子的發展沿革
至於台灣烏魚子的製作及食用方法,可能源自四至五百年前的日本長崎。由於烏魚子成品的形狀與中國唐的墨條相似,故日本人將烏魚子取名為「からすみ」,意即「唐墨」之意。一百多年前尚屬大清帝國的台灣南部,漁民已熟知製造烏魚子的方法,只是所製造之成品粗劣;到一八九六年日本治理台灣第二年,即有日本水產技師在高雄以長崎的方法,著手改良烏魚子之製作程序,使成為一種製造專業。日本人認為世界三大美食為:魚子醬、鵝肝醬及烏魚子。因而烏魚子對日本人,是很珍貴的。
台灣人之食用烏魚,最珍貴的部分正是將牠的卵巢製成烏魚子形式消費。林宗源(一九九四)有一首詩是這樣寫的:「安平港口衝出掠夢的船,駛出暗紅色的海面,彼塔(那邊)有烏柱,烏柱是阮的銀行⋯⋯」說明漁民忍著寒霜出海,找尋大大結群、像是一枝由海底激起來的摩天大柱。如果一網滿載而歸,就即刻「好額」(有錢)起來,所以烏柱像銀行的錢,又因為烏魚色黑故也稱「烏金」。烏魚浮游海面才易捕獲;倘若沉底,則無法捕撈。因此捕烏漁民盛飯時,頗忌諱用「底飯」之詞,需稱「添飯」(台語添音為「天」);期盼結群的烏魚群不沈底,而浮上水面,以利捕撈。雖說烏魚值錢,也多託烏魚卵的福;然而烏魚肉本身也是美味。

2015年5月2日 星期六

臺灣人説的魚故事 序文② 日本語版  著者 荘健隆

  私の母は、大正九年(1920年)、日本統治時代の25年目に東京で生まれたので、名前には「京」の一文字が入っている。その後、母は東京のドレスメーカー学院(現在の学校法人 杉野学園)で二年間勉強していた。そのお陰で、母は日本語の読み、書き、会話がとても上手だった。逆に、北京語はうまくできなかった。私がまだ子供の頃、母はよく「桃太郎」や「浦島太郎」や「かぐや姫」などの昔話を教えてくれたものだ。息子として、自分の作品を母に読ませたい思いは募る一方である。台湾にいる日本の方々も、台湾の魚文化に興味を持つ人、更には、最近の日本人の方々の台湾旅行ブームにより、グルメだけではなく、日本と台湾の文化交流の歴史もお知らせする価値があると思うようになった。


  ある日、桜花日台文化交流会の三岡さんを自宅に誘い、ランチをともにした際、カラスミを食べてもらった。私は三岡さんに、カラスミの製造技術は1896年、日本の長崎の水産技師が台湾で指導、台湾で初めて製造し始めたと伝えた。彼は食べながら目を閉じて、ゆっくりゆっくり味わい、映画《マダム・マロリーと魔法のスパイス》(The Hundred-Foot Journey)で、料理を品評している場面でヘレン‧ミレ(Helen Mirren)が見せるような表情をしていた。その彼の料理を堪能する表情に実に感動した。



臺灣人説的魚故事 序文② 中文版

我的母親是在大正九年(當時是台灣受日本統治的第二十五年)出生在四本東京,所以名字有個「京」字。她後來又到東京的Dress Maker(現在的衫野學園)念了兩年的書。因此她日文讀、寫、說都很順口,反而中國北京話很吃力。我小時,她常常跟我講「桃太郎」、「浦島太郎」、「Ka-gu-ya姬」的童話故事。我也多麼希望她能看得懂我所書寫的魚故事!此外,我的一些日本友人也很想知道台灣的食魚文化。近來日人到台灣旅遊的機會很多,除了美食外,台灣的文化也可能值得知道些吧!



最近有一次,我請櫻花日台文化交流會的三岡先生在家中用便餐,讓他嚐試烏魚子ka-ra-su-mi時,他微閉著雙眼、慢慢細嚼、品嚐,一副很滿意的神態、表情,很像電影One hundred foot journey 中的Helen Mirren在品評美食的神情,令當主人的我覮覺得很欣慰和佩䏜——欣賞美食也可以如比陶醉。我還告訴三岡先生,這烏魚子的製造技術還是在1896年,日本長崎的水産技師到台灣來指導的。


臺灣人説的魚故事 序文➀ 日本語版  著者 荘健隆

十年ほど前、私は〈台灣人的魚故事(台湾人が語る魚の物語)〉を書いた。


 その日以来、私はずっと、自分の作品が日本語訳出版される日を待っていたのである。
理由は二つ。一つは、台湾の多くの魚は日本と関わりがあり、日本の方々にお伝えしたいということ。二つ目は、最愛の母に読ませたいこと。
 今回の作品も私の考えに変わりはない。年取った母はもう本を読まなくなったが、彼女より十年ぐらい年下の方々なら読めるはずだ。


 
  最初はティラピア(台湾名「呉郭魚」)の話。1946年に、台湾人元日本兵の呉氏と郭氏の二人がシンガポールにあった旧日本軍駐屯地からティラピアを輸入。養殖魚として大成功。「いずみ鯛」と言う名称で日本へ輸出されている。



 台湾では四百年の歴史があるサバヒー(台湾名「虱目魚」)国姓爺合戦で知られる 成功(1624~1662)にゆかりある魚だ。
 鄭 成功は日本平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。166には台湾を37年間占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。

この鄭 成功がこの魚をはじめて食べたときに、あまりの美味しさに泉州訛りの閩南語で「(これは)なんという魚か(咪魚:sia-mi hi:シャミヒ)?」と質問したのを地元の人が「サバヒー?」と聞き間違えたことが名前の由来という俗説が広く流布している。しかし、近代台湾の学者たちは「サバヒーの養殖は鄭成功が台湾に来る前から始まったので、この名前の由来をさらに検討する余地はある」と述べていた。日本学者中野民考証によると、「Sabahe」という発音はオランダ語からだという。

 日本では明治初頭以来の養殖が始まった鰻も、日台共同研究によって、台湾では重要な養殖魚となった。更に、台湾の国宝である、台湾櫻鮭(台湾マス)は日本の大島正満博士が研究、「サラマオマス」と名付けたのであった。
 本書最後に述べたマグロは1932年、日蓮丸(白間津港所属)が台湾の基隆を目ざして出航、カジキマグロ漁を行い、以後台湾を漁場基地として、大規模なマグロ漁に発展した。今や、台湾で大人気の黒マグロの刺身を主力に、高級寿司店から開店寿司まで大盛況。また、台湾人は必ず大量なワサビを醤油と混ぜること。黒緑色のソースをこんなに付けて食すことから、台湾特有の刺身「新文化」となっている。


臺灣人説的魚故事 序文➀ 中文版

十年前我曾經寫了一本〈台灣人說的魚的故事〉,就很想能被翻譯成日文,在日本流通。之所以如此,原因有二:1台灣的魚有許多與日本(人)有關係。2想讓我的母親和對台灣有深刻印象的日本人方便閱讀。

本次這本新書想譯成日文的理由稍稍改變,因母親年紀太大已不再看書了,或許比她年齡稍少十歲的台灣人可以看懂。本書一開頭即談到的tilapia(日文:ティラピア),是二戰後1946年有兩位台籍日本兵——吳氏及郭氏,從新加坡(Singapore)的日本軍營引進台灣,並成功養殖至今,更以「潮鯛」刺身賣到日本市場。在台灣有四百年養殖史的虱目魚——sa-ba-hi,以及近百年養殖史的鰻魚,都有日本及台灣先人共同研究、試驗,而成為台灣重要魚種。台灣的櫻花鮭是日本人大島正滿和其助手發現的。本書最後介紹的鮪魚(日文:マグロ),是上世紀的1932年日本人以台灣作基地,大大發展鮪漁業。今天台灣人也學日本人,嗜食鮪魚刺身;只是台灣人沾墨綠色的「wa-sa-bi醬」量遠比日本人多,而形成台灣吃鮪刺身的「新文化」。



2014年5月22日 星期四