日本人の食文化にウナギが登場したのは新石器時代頃とされるが、文献の記録としては713年(和銅6年)に書かれた『風土記』の記載が最初。昔、日本の人たちはよく鰻を円柱状に切って、串焼きの形で調理していた。完成した状態が蒲の穂に似ていたことから「蒲焼」と言われている、という説がある。地域により江戸裂、名古屋裂、京都裂、大阪裂など包丁の形状も大きく異なっている。「串打ち三年、割き八年、焼き一生」と言われるほど長い修業によって得られる調理法も今や伝統的な方法に拘らなくなってきた。蒲焼に使う「たれ」は醤油、砂糖などの調味料で味付けるが、うなぎの脂や身の汁などがタレに混ざり、徐々に風味が良くなる事からつぎ足しながら使う店が多い。
日本では夏の滋養食
日本人の鰻の嗜好は昔から有名なだけでなく、世界一。…日本の鰻も鮪も、消費量は世界一。栄養価が高いため日中両国とも鰻は滋養、薬用効果のある食品として扱っている。中国の人たちは鰻を「水中のオタネニンジン(御種人蔘)」と言い、台湾では、冬の滋養食品として鰻を食している。
日本では中華圏と違い、夏に鰻を食べるのは一つ風習となっていた。さらに「土用の丑の日」(立秋の前日まで、平均18.82日間ある)に、貧富に関係なく必ず鰻を食べる。丑の日なので「う」の字が附く食べ物を食べるという習慣がある、瓜(うり)、梅(うめ)干しなどを食べるが、鰻の方がかなり栄養価が高いため、丑の日のメインディッシュとなった。
丑の日は一年に四回あるのに、日本の人たちはなぜよりによって一番暑い時期に滋養をとるのだろうか? それは日本人にとって夏が最も体力の消耗が激しいからだ。鰻はビタミンが豊富に含まれ、夏バテ、食欲減退防止の効果が期待できる。食人口がどんどん増え、鰻の消費量も夥しくなったため、100年ほど前の明治時代に日本ではすでに鰻の養殖を探求し始めていたのだ。
灶孔炰鱔魚(竃の焚き口で焼きタウナギ)
日本統治時代(1895〜1945)初期、台湾の人が獲った鰻の数はタウナギよりもずっと少なかった。そのため、鰻が高価になり、一つの諺ができた。
「灶孔炰鱔魚,相瞞(竃の焚き口で焼くタウナギに欺かれ)」。その由来と趣旨を推定すると、真っ暗な焚き口でタウナギを焼いていると、一見しただけではまるで鰻を焼いているように見えるが、本当は違う。鰻とタウナギが勘違いされやすいことと発音(台湾語の発音:燒鰻shyo-mwa、が台湾語「相瞞」の発音とほぼ同じ)が似ていることで欺瞞の意味を暗に指す。タウナギを鰻に偽装できるのは蛇状の体形、体長が似ているからだ。
台南市内の「盛り場」では骨なし、歯ごたえのあるタウナギ炒めがいまや台湾南部の名物になっている。仕事のため、台湾北部で暮らしている「下港人(過去台湾南部に住んでいた人のこと)」が食べると、ホームシックになるぐらいの旨さがあると言う。台南の職人たちが作っているタウナギの炒め物は中国福州から来た料理という言い伝えがある。日本時代、日本人が鰻の蒲焼を美味しそうに食べているのを見て、台湾人も食べたがっていたが、当時の台湾で鰻は輸入品以外ば少なかった。
廖火土という台南の人物が、タウナギと鰻の外形が似ていることから、「蒲焼タウナギ」を作ってみた。結局期待外れの味だった為、前述の通り「焼鰻(shyo-mwa)=相瞞」、つまり騙されたと言われる怖れもあって、諦めた。後に福建省の省都福州から来た職人がタウナギ炒めを作ってみたところ、台湾人だけではなく、日本人からも大好評を博した。それから、日本の一部の地域では「八つ目ウナギ」が鍋焼きで食されるようになった。
台湾の養鰻業が日本と引き分け
本筋からちょっと外れた。先述の台湾の鰻養殖は日本と深いつながりがある。
1910年代の水産試験研究機関によるさまざまな研究、調査が行われたが、なかなか成果が出なかった。原因は、当時台湾で鰻の養殖を研究していた日本の学者たちの考え方や研究の仕方は日本国内の流儀に従うもので、台湾の環境に則した調整をしていなかったからだ。
1940年代になっても、研究成果は見本止まり。普及という本来の目標は叶えられなかった。結局太平洋戦争が始まったことで研究も中止。
1952年、台湾のサメ漁業が流行り始め、その餌として、中型鰻の需用が急増。そこで、日本鰻養殖の権威、松井魁さんを顧問として台湾に招聘、桃園に池を設け、正式に養殖を始めたことで、台湾の鰻養殖業にようやく光りが差した。
日本の独占だった養鰻業が、少しずつ、優れた環境と努力家の多い台湾に台頭されそうになってきた。台湾の鰻養殖は日本に匹敵するほどに発展している。日本の人たちは台湾の夏は暑すぎて、鰻には不向きだと思っていたが、意外にうまく進んだ。一方、日本は冬が寒すぎて、養殖用のビニールテントを立て、加温しなければならない。コストが高くなり、鰻の成長もあまりうまくいかなかったらしい。さらに、台湾の養殖業者がシラスウナギの捕獲に、あまりに積極的だったので、日本で採取できる鰻の数が年々減り、仕方がなく、台湾からシラスウナギを仕入れることになった。海外資本が台湾に流入しやすくなり、台湾の養殖業は更に隆盛を極めた。
1975年には、台湾養殖ウナギの年間生産量が一万四千トンに達した。養鰻業者もエサ用雑魚の代わりに人工飼料を使用し始めた。
川、湖で成長、海で産卵・孵化
ティラピアの自由恋愛、子作りと比べて、鰻はいかにも不思議で悲壮な一生を送ってている。母川(ぼせん)を遡上するサーモンと正反対で、鰻は降河回遊(こうかかいゆう)するのだ。
鰻は陸内の淡水地域で幼年、青年時期を過ごしている。結婚適齢期(三、四歳、または十歳の場合もある)に成った秋の夜、鰻は普段生息している水域からから上がって、芝生など湿気のある地面を通って、また河の中に入り、必死で海へ向かう。この時期、鰻は婚姻色になり、目が肥大化、摂餌も停止、飢餓状態で産卵地へ向かっていく(この長い道のりは三、四千キロメータルに達する場合もある)。日本鰻を一例にとれば、産卵地は北西太平洋のマリアナ海溝、東経約142度、北緯12〜16度の海嶺にある。若い男女たちは求愛、結婚、そして最も深くて隠密な海域でハネムーンを過ごし、世代交代の使命を果たす。
産卵の後、体力をつくしたせいで、結婚したばかりの鰻たちは自分たちの故郷で朽ち果てる。間もなく、体長約0.5センチの仔魚が孵化、外形は葉の形に変わり、レプトケファルスに成る。独特な形態で、泳ぐというより、海流によって浮遊生活を送りながら、親たちが来た経路に沿って旅たつ。春、レプトケファルスたちが河口に着くと、稚魚に変態、細いマッチと似たようなシラスウナギ(Glass eel)に成る。河口から川を遡上して、昔親たちが暮らしていた場所へ向かっていく。この時の幼魚(クロコ、Elver)は漁師たちに大量捕獲され、養殖業者に売られることが多い。
掛け替えのない台湾養鰻業
世界中鰻の魚種は二十種ほどあるが、今最も価値ある養殖鰻は日本鰻(Anguilla japonicas)。日本鰻のシラスウナギは主に中国、韓国、日本及び台湾の沿岸で生息しており、東南アジアで鰻の稚魚の生産量は年間百トンにまで達し、成魚まで育てると十万トンもあるという。2010年〜2013年(平成23〜25年)の間、日本鰻の生産量が41から19トンまで激減したため、稚魚の価格が一匹二百台湾元(約八百円)まで高騰し、成魚は一キロ千元(約四千円)を突破した。
ここ数年、台湾も日本もシラスウナギが仕入れられず、代りにヨーロッパ、アメリカから輸入してきた(品種はA. anguillaとA. rostrata)。しかし、この欧米から来た二種の鰻は、餌を食べるばかりで、あまり育たない上、病気になりやすく、業者たちには莫大な損害となった。シラスウナギの少なくなった今、原産地の一つである中国は、虎視眈々と日本の鰻市場を狙っている。何度も日本、ドイツ、台湾から専門家を招聘、量産化に甚大な成果をもたらしたが、市場では台湾の地位を奪うまでには至っていない。
六十年間発展してきた台湾の養鰻業は、日本輸出向け産業として確固たる実績を確立している。台湾の養鰻業者たちは常に「燒瓷吃缺碗(お客さまに良いものを提供し、自分が使う物は我慢する)」精神なので、日本の消費者たちは「台湾で育った鰻は日本のより美味しい」とよく言っている。朝っぱらから餌を調理し、お昼には池を見回り、夜中は停電を心配しなければならない。この勤勉さには、完璧主義で知られる日本の方でさえ感服される。台湾人の誇りと言っていいだろう。
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