2015年8月30日 星期日

臺北市櫻花日台文化交流會的意義



  我們認為,「待人接物的心」應當說是通往日本文化精髓的根幹。而這樣的精神,不應止於日本一國境內,更應該是共通於全世界、全人類的法則。
  主人之於來客,以感謝的心,誠意地費時準備花卉、菓子、道具、茶。而此一心意也會傳達給客人,主客之間,會透過感謝的心來彼此相互交流。這是超越形式上的禮儀,更加重要的事物。
  感謝與喜悅相互交流,如此待人接物的心境,不止於茶道、花道,更感染了生活、經濟,健康、繁榮、都給相互的發展帶來了莫大的貢獻,可說世界共通的成功法則,就在這其中。
  311大地震時,日本接受了來自台灣朋友莫大的援助以及鼓勵的心意。我們日本人,是一個不擅長用言語表達自我的民族,若是能夠透過和勇於發言、表達自我的台灣朋友組成堅定的夥伴關係,那麼想必能夠將真正的喜悅、感謝,這些人類原本的精髓,持續地實踐、傳承下去。

  對著眼前的人們傳達最真摯的心意;傳達超越言語的喜悅,這就是成功的法則。
相互實踐全人類共通的法則,那樣的一個地方,就是我們臺北市櫻花日台文化交流會的意義。

2015年8月3日 星期一

鰻の蒲焼


 日本人食文化にウナギが登場したのは新石器時代頃とされるが、文献の記録としては713年和銅6年)に書かれた『風土記』の記載が最初。昔、日本の人たちはよく鰻を円柱状に切って、串焼きの形で調理していた。完成した状態が蒲の穂に似ていたことから「蒲焼」と言われている、という説がある。地域により江戸裂、名古屋裂、京都裂、大阪裂など包丁の形状も大きく異なっている。「串打ち三年、割き八年、焼き一生」と言われるほど長い修業によって得られる調理法も今や伝統的な方法に拘らなくなってきた。蒲焼に使う「たれ」は醤油、砂糖などの調味料で味付けるが、うなぎの脂や身の汁などがタレに混ざり、徐々に風味が良くなる事からつぎ足しながら使う店が多い。


日本では夏の滋養食

 日本人鰻の嗜好は昔から有名なだけでなく、世界一。…日本の鰻も鮪も、消費量は世界一。栄養価が高いため日両国とも滋養、薬用効果ある食品として扱っている。中国の人たちは鰻を「水中のオタネニンジン(御種人蔘)」と言、台湾では、冬の滋養品として鰻を食ている。
日本では中華圏と違、夏に鰻を食べるのは一つ風習となっていた。さらに「土用の丑の日」(立秋の前日まで、平均18.82日間ある)に、貧富関係なく必ず鰻を食べる。丑の日なので「う」の字が附く食べ物を食べるという習慣がある、瓜(うり)、梅(うめ)干しなどを食べるが、鰻の方がかなり栄養価が高いため、丑の日のメンディッシュとなった。
丑の日は一年四回あるのに、日本の人たちはなぜよりによって一番暑い時期に滋養をとるのだろうか? それは日本人にとってが最も体力の消耗が激しいからだ。鰻はビタミンが豊富に含まれ、夏バテ、食欲減退防止の効果が期待できる。食人口がどんどん増え、鰻の消費量も夥しくなったため、100年ほど前の明治時代に日本ではすでに鰻の養殖を探求し始めていたのだ

灶孔炰鱔魚(竃の焚き口で焼きタウナギ)

日本統治時代(1895〜1945)初期、台湾の人が獲った鰻の数はタウナギよりもずっと少なかった。そのため、鰻が高価になり、一つの諺がきた
「灶孔炰鱔魚,相瞞(竃の焚き口で焼タウナギかれ)」。その由来と趣旨を推定すると、真っ暗な焚き口でタウナギを焼いていると、一見しただけではまるで鰻を焼いているように見えるが、本当は違う。鰻とタウナギが勘違いされやすいことと発音(台湾語の発音:燒鰻shyo-mwa、が台湾語「相瞞」の発音とほぼ同じ)が似ていることで欺瞞の意味を暗に指す。タウナギを鰻に偽装できるのは蛇状の体形、体長が似ているからだ。
台南市内の「盛り場」では骨なし、歯ごたえのあるタウナギ炒めがいま台湾南部の名物になっている。仕事のため、台湾北部で暮らしている「下港人(過去台湾南部に住んでいた人のこと)」が食べると、ホームシックになるぐらいの旨さがあると言う。台南の職人たちが作っているタウナギの炒めは中国福州から来た料理という言い伝えがある。日本時代、日本人が鰻蒲焼を美味しそうに食べているのを見て、台湾人も食べたがっていた台湾鰻は輸入品以外少なかった。
廖火土という台南の人物が、タウナギと鰻の外形が似ていることから、「蒲焼タウナギ」を作ってみた。結局期待外れの味だった為前述の通り「焼鰻(shyo-mwa相瞞」、つまり騙されたと言われる怖れもあって、諦めた。後福建省の省都福州から来た職人タウナギ炒めを作ってみたところ、台湾人だけではなく、日本からも大好評を博した。それから、日本の一部の地域では「八つ目ウナギ」が鍋焼きで食されるようになった。



台湾の養鰻業が日本と引き分け

本筋からちょっと外れた。先述台湾の鰻養殖は日本と深いつながりがある。
1910年代の水産試験研究機関によるさまざまな研究、調査が行われが、なかなか成果が出なかった。原因、当時台湾で鰻養殖を研究していた日本の学者たちの考え方研究の仕方日本国内の流儀に従うもので、台湾の環境に則した調整していなかったからだ。
1940年代になっても、研究成果見本止まり。普及という本来の目標は叶えられなかった。結局太平洋戦争が始まったことで研究も中止。
1952年、台湾のサメ漁業が流行り始めその餌として、中型鰻の需用が。そこで、日本鰻養殖の権威松井魁さんを顧問として台湾に招聘、桃園に池を設け正式に養殖を始めたことで、台湾の鰻養殖業にようやく光りが差した。
日本独占だった養鰻業が、少しずつ、優れた環境と努力家の多い台湾に台頭されそうになってきた。台湾の鰻養殖は日本に匹敵するほどに発展している。日本の人たちは台湾の夏暑すぎて、鰻には不向きだと思っていたが、意外にうまく進ん。一方、日本は冬が寒すぎて、養殖用のビニールテントを立て、加温しなければならない。コストが高くなり、鰻の成長もあまりうまくいなかったらしい。さらに、台湾の養殖業者がシラスウナギの捕獲に、あまりに積極的だったので、日本採取できる鰻の数が年々減、仕方がなく、台湾からシラスウナギを仕入れることになった。海外資本が台湾に流入しやすくなり、台湾の養殖業更に隆盛を極めた。
1975年には、台湾養殖ウナギの年間生産量が一万四千トンに達した。養鰻業者もエサ用雑魚の代わりに人工飼料を使用し始めた。

川、湖で成長、海で産卵・孵化

ティラピアの自由恋愛子作りと比べ、鰻はいかにも不思議で悲壮な一生を送ってている。母川(ぼせん)を遡上するサーモンと正反対で、鰻は降河回遊(こうかかいゆう)するのだ。
鰻は陸内の淡水地域で幼年、青年時期を過ごしている。結婚適齢(三、四歳、または十歳の場合もある)に成った秋夜、鰻は普段生息している水域からから上がって、芝生など湿気のある地面を通って、また河の中に入り、必死で海へ向か。この時期、鰻は婚姻色になり、目が肥大化、摂餌も停止、飢餓状態で産卵地へ向かっていく(この長い道のりは三、四千キロメータルに達する場合もある)。日本鰻を一例にとれば、産卵地は北西太平洋のマリアナ海溝、東経約142度、北緯12〜16度海嶺にある。若い男女たちは求愛、結婚、そして最も深くて隠密な海域でハネムーンを過ごし、世代交代の使命を果たす。
産卵の後、体力をつくしたせいで、結婚したばかりの鰻たちは自分たちの故郷で朽ち果てる。間もなく、体長約0.5センチの仔魚が孵化、外形は葉の形に変わ、レプトケファルスに成る。独特な形態で、泳ぐというより、海流によって浮遊生活を送りながら、親たちが来た経路に沿って旅たつ。春、レプトケファルスたちが河口に着くと、稚魚に変態、細いマッチと似たようなシラスウナギ(Glass eel)に成る。河口から川を遡上して、昔親たちが暮らしていた場所へ向かっていく。この時の幼魚(クロコ、Elver)は漁師たちに大量捕獲され、養殖業者に売られることが多い。

 掛け替えのない台湾養鰻業

世界中鰻の魚種は二十種ほどあるが、今最も価値ある養殖鰻は日本鰻(Anguilla japonicas)。日本鰻のシラスウナギは主に中国、韓国、日本及び台湾の沿岸で生息しており、東南アジアで鰻稚魚の生産量は年間百トンまで達し、成魚まで育てると十万トンもあるという。2010年〜2013年(平成23〜25年)の間、日本鰻の生産量が41から19トンまで激減したため、稚魚の価格が一匹二百台湾元(約八百円)まで高騰し、成魚は一キロ千元(約四千円)を突破した。
ここ数年、台湾も日本もシラスウナギが仕入れられず、代りにヨーロッパ、アメリカから輸入してきた(品種はA. anguillaとA. rostrata)。しかしこの欧米から来た二種の鰻は、餌を食べるばかりで、あまり育たない、病気になりやす、業者たちに莫大な損害となった。シラスウナギの少なくなった今、原産地の一つである中国は、虎視眈々と日本鰻市場を狙っている何度も日本、ドイツ、台湾から専門家を招聘、量産化に甚大な成果をもたらし、市場では台湾地位を奪うまでには至っていない。
六十年間発展してきた台湾の養鰻業は、日本輸出向け産業として確固たる実績を確立している。台湾の養鰻業者たちは常に「燒瓷吃缺碗お客さまに良いものを提供し自分が使う物は我慢する)」精神ので、日本の消費者たちは「台湾で育った鰻は日本のより美味しい」とよく言っている。朝っぱらから餌を調理し、お昼に池を見回り、夜中停電を心配しなければならない。こ勤勉さには、完璧主義で知れる日本の方でさえ感服される。台湾人の誇りと言っていいだろ


2015年5月30日 星期六

吳郭魚tilapia 中文版  著者 莊健隆

聖經中的魚

  聖經上記載:耶穌沿加利利海(Sea of Galilee)行走時,看見了兩個兄弟,西門和安德烈在海裡撒網捕魚。耶穌對他們說:「來,跟從我,我要叫你們得人如得魚一樣。」兩兄弟立刻捨下魚網,跟隨了耶穌彼得是耶穌給西門的名字拉丁文的意思是岩石。耶穌的用意是:我要把我的教會建造在磐石上,可見耶穌對彼得的期待。彼得早期在加利利海所補獲的魚,我們當然可以稱為彼得的魚
早些年,一部份的美國商人為了促銷tilapia(日文音基拉比亞),就稱牠為聖彼得的魚(St. Peters Fish)。究竟tilapia是什麼魚呢?其實,就是我們所熟知的吳郭魚。依該魚的地理分佈,以及加利利海實際上是一個淡水湖(吳郭魚是一中淡水魚)來判斷,彼得很可能曾捕獲過吳郭魚。倒是tilapiaSt. Peters Fish行銷大增之後,美國的食品藥物管理局就不容許使用這對消費者交代不清的名號。


慈鯛科魚以口孵卵

吳郭魚是原產於非洲,而後陸續引進至印度、印尼以及泰國等地;全球共有一百多種,其中約有十五種曾被人們拿來做池塘養殖。他們當中的莫三鼻(Oreochromis mossambicus)最早被人由非洲引進到東南亞,主要原因是這種魚有很多令人著迷的生活習性,像是用口孵魚卵,及仔魚會湧入母魚口腔以求保護等。
拜上述這些習性之賜,儘管牠們的外型及體色並不耀眼,但著實一度風靡了觀賞魚的愛好者。不過好景不常,這些莫三鼻不就就遭飼主棄養,「放生」到河川湖泊中,一九三九年印尼國家水產養殖官員首次在印尼自然水域中發現此魚,並列入官方記載中。



從新加坡引進莫三鼻克魚
台灣則在一九四六年由吳振輝、郭啟彰二位先生首度由新加坡引進莫三鼻。話說一九四三年,日治台期間,郭啟彰被徵調至新加坡服役,軍方借重他的養殖經驗,派他到養殖場飼養「tilapia」。飼養期間郭先生暗自決定要將牠引至台灣。到一九四六年日本戰敗後的第二年,在等待遣返期間,郭氏遇見了同營的吳振輝,在閒談中得悉吳也養過這種魚,也認為此魚適合台灣的環境。
有一天,兩人潛越日軍養殖場的三層鐵絲網,以內衣充當漁網,撈取剛孵化約五天左右的苗百尾左右,放入空罐中。返台前夕,郭氏把這些魚苗裝入水桶中,放在營房門角落,不料卻被同鄉誤為髒水倒入水溝,經人告知後展開搶救,最後只救回了十六尾返回基隆港的十天航程中,郭氏以自己配給到的生活用水為魚苗換水,輾轉回到旗津老家時,只剩十三尾(五雄、八雌)活著,他們就是台灣吳郭魚的鼻祖。
tilapia」引進之初並未正式予以命名,因為牠來自南洋,而有了「南洋鯽仔」、「南洋鮘仔」的稱呼。一九四九年,台灣當局有感於郭啟彰在境內放養這種魚苗頗具績效,就頒發給這種魚「身分證」||農林廳正式以二人姓氏發布命名為吳郭魚。

ティラピア(呉郭魚)編① 日本語版   著者:荘健隆

聖書に出た魚


 聖書によれば、イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。※人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐ網を捨てて従った。(マタイによる福音書4章十八~二十節)ペトロ(本名はシモン)はイエスがシモンに付けたニックネームであり、ラテン語では「岩」を意味する。
イエスの意思は:「わたしは言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。 黄泉の力(=「ハデスの力」誰も抗うことのできない「死」という運命の意)もこれ(教会という「生」の力)に打ち勝つことはない。」(マタイによる福音書十六章十八節)福音書から見ると、
イエスからのペトロへの期待がわかるはずだ。ペトロがガリラヤ湖で捕えた魚を「サン・ペトロの魚」と呼んでもいいだろう。
初期の教会は会堂がなかった。ゆえに聖書の中で言われる教会とは会堂、つまり目に見える建物ではなく、神を礼拝するために集められた人々をさす。よって「人間をとる」は「人が集まる」の意と捉えられる

その昔、一部のアメリカ商人がティラピアを売り込むために、St. Peters fish(サン・ペトロの魚)という名前を付けた。ティラピアとは、一体どんな魚なのか、実は、台湾では誰もが知る「呉郭魚」である。ガリラヤ湖は純粋な淡水湖でありティラピアの生息分布から考えても、ペトロが呉郭魚を取っていた可能性は高い。ちなみに商人たちがティラピアをサン・ペトロの魚という名で大ヒットさせたが、アメリカのFDA(アメリカ食品医薬品局)はティラピアの種の多さなどの理由で、サン・ペトロの魚の名前の使用が禁じられた。

シクリッド科のティラピア、口内で卵を孵化させる

ティラピアの原産地はアフリカであったが、その後インド、インドネシア、タイなどの国で輸入された。世界には百種以上のティラピアがおり、内約五十種が養殖として扱われたことがある。モザンビークティラピア(Oreochromis mossambicus)早くはアフリカから東南アジアに導入された。その理由は、産卵された卵を口の中に入れ、卵を孵化させたり、稚魚を親の口内で育てたりする興味深い習性があるからだ。
ティラピアの色と外形は地味だが、この面白い習性のおかげで、観賞魚愛好家の間では一時ブームになっていた。しかし、「月に叢雲、花に風」の諺の如く、モザンビークティラピアは段々飼い主に捨てられ、川や湖などに「リリース」された。1939年、インドネシア国家水産養殖官が初めて自然環境でのティラピアを発見し、オフィシャル記録されたとのこと。



シンガポールからモザンビークティラピアを導入
台湾では1946年に呉振輝氏と郭彰氏の二人がシンガポールから初めてモザンビークティラピアを導入した。1943年、日本統治時代陸軍にシンガポールまで徴募され、軍隊は郭氏の養殖経験を生かし、飼育場で「ティラピア」の養殖を命じた。養殖の進展と同時に郭氏は魚を台湾に引き渡すことを密かに決めた。1946年、終戦翌年、台湾送還されることを待っていた間に、郭氏が同じ駐屯地にいた呉振輝と出会った。雑談する内に呉氏も同じ魚を飼育していたことを知り、二人ともモザンビークティラピアは台湾の環境に適応出来ると確信した。
ある日、二人が重に張り巡らされた有刺鉄線に囲まれた日本軍の養殖池に乗り込み、自分たちの下着を網代りに、孵化五日目ぐらいの稚魚を百匹ほど取り、空き缶に入れた。台湾に帰る直前、郭氏が稚魚をバケツに入れ、部屋の端っこに置いたが、同郷の人に汚い水と思われ、溝に流された。一所懸命掬っていたが十六匹しか見つからなかった。基隆港に戻る途中、郭氏が自分の飲用水で水換えをして、やっと実家の旗津に着いたときはもう十三匹(雄が5雌が8)しか生き残っていなかったそうだ。この十三匹のティラピアが台湾呉郭魚の先祖となった。
初めて「ティラピア」が台湾に来た時は、正式にネーミングされていなかった。南洋から来た魚なので、最初は「南洋鮒」と呼ばれていたが、1949年、呉振輝、郭彰二人が国内稚魚養殖の貢献により、感謝の意として、ティラピアに「身分証明」を頒布、台湾省農林庁が二人の苗字を取って「呉郭魚」と名付けたのだ。



2015年5月18日 星期一

台灣的烏魚文化② 中文版  著者:荘健隆


台灣烏魚子的發展沿革


至於台灣烏魚子的製作及食用方法,可能源自四至五百年前的日本長崎。由於烏魚子成品的形狀與中國唐的墨條相似,故日本人將烏魚子取名為「からすみ」,意即「唐墨」之意。一百多年前尚屬大清帝國的台灣南部,漁民已熟知製造烏魚子的方法,只是所製造之成品粗劣;到一八九六年日本治理台灣第二年,即有日本水產技師在高雄以長崎的方法,著手改良烏魚子之製作程序,使成為一種製造專業。日本人認為世界三大美食為:魚子醬、鵝肝醬及烏魚子。因而烏魚子對日本人,是很珍貴的。

台灣人之食用烏魚,最珍貴的部分正是將牠的卵巢製成烏魚子形式消費。林宗源(一九九四)有一首詩是這樣寫的:「安平港口衝出掠夢的船,駛出暗紅色的海面,彼塔(那邊)有烏柱,烏柱是阮的銀行⋯⋯」說明漁民忍著寒霜出海,找尋大大結群、像是一枝由海底激起來的摩天大柱。如果一網滿載而歸,就即刻「好額」(有錢)起來,所以烏柱像銀行的錢,又因為烏魚色黑故也稱「烏金」。烏魚浮游海面才易捕獲;倘若沉底,則無法捕撈。因此捕烏漁民盛飯時,頗忌諱用「底飯」之詞,需稱「添飯」(台語添音為「天」);期盼結群的烏魚群不沈底,而浮上水面,以利捕撈。雖說烏魚值錢,也多託烏魚卵的福;然而烏魚肉本身也是美味。



 

 

 

 

 

 

 

烏魚全吃的歷史經驗


宋時的《京口錄》稱「鯔魚骨軟」,明代馮時可所撰《雨行雜錄》也稱「骨軟肉細」。明朝詩人(一五三四年進士)所寫的〈鯔魚〉詩文,更指出鯔魚味美勝鱸;而鱸魚一向被認為是手術後進補的上等好魚。因為烏魚好吃,也因此在中國很早就被養殖著。明朝河南人的黃省曾(一四九五~一五四六)在《魚經》中曰「松之人於潮泥地鑿池,仲春潮水中捕盈寸者養之,秋而盈尺。」說明其養殖甚早。


孕卵烏魚及烏魚子生產

更在一九七八年之後,就開始嘗試進行「孕卵烏魚」(抱卵烏魚)的養殖,而在一九八七年取得很好的成果。到一九九〇年代,台灣的烏魚養殖已不再只養一年齡的「小烏仔」,而是挑選第一年養出的大型母魚,繼續進行全雌烏魚養殖至第二、三年。於是,所謂的「塭仔子」的烏魚,也開始有了商業化的生產,而且口味並不比野生烏魚子差。

到康熙年間陳夢林所寫的《諸羅縣志》有「(卵)薄醃曬乾,明於琥珀」,頗像我們今日所食「烏魚子」的型態(不只醃漬而已)。經歷大清國及日本統治的鹿港人洪棄生(一八六七~一九二九),在他的《寄鶴齋選集》中有〈烏魚五十二韻〉詩作,對該魚烹調、販售、魚季等也多所描述。

台灣民間雖享用著烏魚,卻在祭祀時,不用此魚祭神,王豐(一九八〇)指出這是因為台灣人將牠尊稱為「神魚」,也有「天公魚」的雅號。此種風俗是否與台灣漁村所流傳的一個神話有關,耐人尋味。故事是這樣的,有一位掌管所有魚種而受漁民尊為「水仙王」的神明,為了感謝漁村的平民百姓以三牲祭祀,並頂禮膜拜祂自己,乃於每一年同一時期,把大批烏魚趕來台灣,供漁民捕撈。所以再拿到神明所賜的東西,反過用於祭祀神,似乎有不敬之處。

我們若想了解現代台灣人吃魚文化,似乎需要對過去做一番回顧。食魚文化是一面照鏡,它映照出形形色色的飲食習慣,也揭露了社會政治的價值與秩序。烏魚所帶給我們的許多文化遺產,實在值得我們珍惜、熟悉。

台湾のボラ文化② 日本語版 著者:荘健隆

台湾カラスミの発展

 台湾のカラスミの作り方や食べ方は、四百年以上前の安土桃山時代に明(みん)から長崎に伝来したもの。
からの伝来したばかりの頃のカラスミはサワラの卵を原料としていたが、延宝三(1675)年に高野勇助が長崎の野母崎付近の海で豊富に獲れるボラの卵での製造を考案した。
形が唐の「唐墨」と似ているので「カラスミ」と呼ばれている。
台湾が未だ清の領土だった頃、台湾南部の漁師たちはカラスミの作り方に熟練していたが、完成品は粗末なものだった。
1896年、日本統治の始まった二年目に高雄で日本の長崎から来た水産技師が製法を改良。その後、カラスミの製法が一つの専門技術として確立された。日本では今やキャビア、フォアグラ、トリュフに劣らず、カラスミを世界三大珍味と見る向きもある。

台湾では、ボラを捌く際、カラスミ作りを重視し、大事な卵巣をいかに傷つけずに捌くかに注意をはらう。林宗源(詩人1935~)による1964年の詩に以下の内容が記されている。



「安平港口衝出掠夢的船,駛出暗紅色的海面,彼塔有烏柱,烏柱是阮的銀行…」

(安平港から飛び出した夢の船、黒紅色の海面を走り出す。彼塔(あそこ)には
烏魚(ボラ)柱があり、烏柱は我等の銀行なのだ…)。

この詩が伝える意味は「漁師たちが酷寒に耐えて海に出で、海底から突き上がるボラの群れの柱の如き大群を追いかける。一網打尽にすれば、あっという間に大金持ちになれる。」

というわけで最後にボラの群れ柱を銀行に比喩したのだろう。

 海面に浮いてきたボラを捕まえるのは簡単だが、海底に沈んでいたら、容易ではない。
だから、ボラ狩りの台湾の漁師たちが食事するときは絶対「底飯(台湾語de-bun)」
と言わず「添飯(台湾語tyam-bun)」と言う。
れはもちろん、ボラの群れが沈まず、水面に浮き上がってほしいという考えだ。

ボラの価値は卵にあるが、肉も美味である。



ボラの丸食い史



宋朝の《京口録》に「鯔魚骨軟」、明朝の馮時可が著した《雨行雑録》の中にもボラを「骨軟肉細(骨も肉も柔らかい)」とある


明朝の詩人孫陛氏当時詩人として最難関国家試験とされた「進士)1534年にに作った詩〈鯔魚〉の中に、ボラはバラマンディより美味であると主張していた。バラマンディは一般的に手術後の上等な滋養食品とされているが、ボラはそれ以上の旨味があるという。この旨味、ボラの養殖めたと言えよう。

明朝、河南省の黄省曽氏(1495年~1546年)が《魚経》に下記のように述べた
「松之人於潮泥鑿池,仲春潮水中捕盈寸者養之,秋而盈尺。(松の人達が浜辺の泥沼に池を作り、仲春の潮水から体長が一寸ほど満ちたやつを獲って養殖する、秋になると体長は一尺ほどまで伸びる)」
まさにボラ養殖起源の確証であろう。



豊かな水産資源から生み出された、抱卵ボラとカラスミの生産


1978年以降、台湾南部で「抱卵ボラ」の養殖を試み始め、1987年になってようやく成果が出た。1990年代から、台湾でのボラ養殖はもう「稚魚」だけでなく、一年大きく育った雌を選び出し、更に雌だけを二、三年育てあげる。これで「養殖魚」卵巣から作ったカラスミ商業生産まった。その味も天然産に劣らないと言われている。
清、康熙帝の時代、陳夢林氏が著した《諸羅県志》の中に「(卵)薄醃曬乾,明於琥珀…(漬け後に干しだしその艶は琥珀を上回る)」とある。ここで述べているものは、漬物ではなく現代のカラスミと近くなってきている
清朝と日本の統治を経た、当時鹿港の人だった洪棄生氏(1867~1929)が書いた《寄鶴齋選集》の中に〈食烏魚五十二韻(ボラを食べる五十二種の風味)〉と言う一篇の詩があり、ボラの調理、商売、などについての描写が数多くある。
台湾では日常生活ボラを食が、祭祀の時は、ボラを用いない王豐の1980年の記載によると、台湾の人たちはボラを「神魚」、「天公魚(天神魚)」などの呼称で称えている。これらはひとつの意味深な神話が由来なのかもしれない。
その神話とは・・・
「水仙王」と言われ、あらゆる魚類を支配する神様がいた。その神様がいつも漁民たちからもらっている供養に感謝の気持ちとして、年に一度、同じ時期にボラの群れを台湾に率い、漁師たちに与えたという。
つまり、ボラはあたかも神からの贈り物のような存在にな、それをまた神に捧げ、お返しするのは、失礼な感じがするのだろう。
現代の台湾人の魚食生活を探求する上では、まず過去を振り返る事は不可欠だろう
魚食文化はまるで鏡のように、飲食習慣のみならず実に様々社会、政治の価値秩序映し出す
ボラが我々に与えてくれた歴史、文化財理解し、大事にすることが、今を生きる力にも繋がるのではないか