2015年5月30日 星期六

ティラピア(呉郭魚)編① 日本語版   著者:荘健隆

聖書に出た魚


 聖書によれば、イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。※人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐ網を捨てて従った。(マタイによる福音書4章十八~二十節)ペトロ(本名はシモン)はイエスがシモンに付けたニックネームであり、ラテン語では「岩」を意味する。
イエスの意思は:「わたしは言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。 黄泉の力(=「ハデスの力」誰も抗うことのできない「死」という運命の意)もこれ(教会という「生」の力)に打ち勝つことはない。」(マタイによる福音書十六章十八節)福音書から見ると、
イエスからのペトロへの期待がわかるはずだ。ペトロがガリラヤ湖で捕えた魚を「サン・ペトロの魚」と呼んでもいいだろう。
初期の教会は会堂がなかった。ゆえに聖書の中で言われる教会とは会堂、つまり目に見える建物ではなく、神を礼拝するために集められた人々をさす。よって「人間をとる」は「人が集まる」の意と捉えられる

その昔、一部のアメリカ商人がティラピアを売り込むために、St. Peters fish(サン・ペトロの魚)という名前を付けた。ティラピアとは、一体どんな魚なのか、実は、台湾では誰もが知る「呉郭魚」である。ガリラヤ湖は純粋な淡水湖でありティラピアの生息分布から考えても、ペトロが呉郭魚を取っていた可能性は高い。ちなみに商人たちがティラピアをサン・ペトロの魚という名で大ヒットさせたが、アメリカのFDA(アメリカ食品医薬品局)はティラピアの種の多さなどの理由で、サン・ペトロの魚の名前の使用が禁じられた。

シクリッド科のティラピア、口内で卵を孵化させる

ティラピアの原産地はアフリカであったが、その後インド、インドネシア、タイなどの国で輸入された。世界には百種以上のティラピアがおり、内約五十種が養殖として扱われたことがある。モザンビークティラピア(Oreochromis mossambicus)早くはアフリカから東南アジアに導入された。その理由は、産卵された卵を口の中に入れ、卵を孵化させたり、稚魚を親の口内で育てたりする興味深い習性があるからだ。
ティラピアの色と外形は地味だが、この面白い習性のおかげで、観賞魚愛好家の間では一時ブームになっていた。しかし、「月に叢雲、花に風」の諺の如く、モザンビークティラピアは段々飼い主に捨てられ、川や湖などに「リリース」された。1939年、インドネシア国家水産養殖官が初めて自然環境でのティラピアを発見し、オフィシャル記録されたとのこと。



シンガポールからモザンビークティラピアを導入
台湾では1946年に呉振輝氏と郭彰氏の二人がシンガポールから初めてモザンビークティラピアを導入した。1943年、日本統治時代陸軍にシンガポールまで徴募され、軍隊は郭氏の養殖経験を生かし、飼育場で「ティラピア」の養殖を命じた。養殖の進展と同時に郭氏は魚を台湾に引き渡すことを密かに決めた。1946年、終戦翌年、台湾送還されることを待っていた間に、郭氏が同じ駐屯地にいた呉振輝と出会った。雑談する内に呉氏も同じ魚を飼育していたことを知り、二人ともモザンビークティラピアは台湾の環境に適応出来ると確信した。
ある日、二人が重に張り巡らされた有刺鉄線に囲まれた日本軍の養殖池に乗り込み、自分たちの下着を網代りに、孵化五日目ぐらいの稚魚を百匹ほど取り、空き缶に入れた。台湾に帰る直前、郭氏が稚魚をバケツに入れ、部屋の端っこに置いたが、同郷の人に汚い水と思われ、溝に流された。一所懸命掬っていたが十六匹しか見つからなかった。基隆港に戻る途中、郭氏が自分の飲用水で水換えをして、やっと実家の旗津に着いたときはもう十三匹(雄が5雌が8)しか生き残っていなかったそうだ。この十三匹のティラピアが台湾呉郭魚の先祖となった。
初めて「ティラピア」が台湾に来た時は、正式にネーミングされていなかった。南洋から来た魚なので、最初は「南洋鮒」と呼ばれていたが、1949年、呉振輝、郭彰二人が国内稚魚養殖の貢献により、感謝の意として、ティラピアに「身分証明」を頒布、台湾省農林庁が二人の苗字を取って「呉郭魚」と名付けたのだ。



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