台湾映画《海角七号》(2008年8月台湾で公開。范逸臣、田中千絵主演)に登場する第5通目のラブレターに:…遇見了要往台灣避冬的烏魚群。我把對你的相思寄放在其中一隻,希望你的漁人父親可以捕獲。友子,儘管它的氣味辛酸,你也一定要嘗一口…(台湾で冬を越すボラの群れを見たよ。僕はこの思いを一匹に託そう。漁師をしている君の父親が、捕まえてくれることを願って。友子、悲しい味がしても食べておくれ…)
このシーンで取り上げられた「ボラの群れ」は台本に必要だから使われた台詞ではない。台湾総統府に勤務した大島正満さん(1884~1965)の研究によると、長崎のボラ(九州沿岸で生息している群れ)は、毎年十二月上旬、対馬海峡から伊万里湾に下り、彼杵半島を沿って長崎沿岸、さらに野母崎を越え、琉球諸島に着いて、黒潮本流の近くで産卵する。
つまり映画の、ラブレターを書いた登場人物は1945年12月、船で日本へ帰国途中に回遊中のボラを見かけたのだろう。台湾で一般的に認識されているボラの回遊経路は新竹、または鹿港を通って西南沿岸を沿って、バシー海峡まで南下して産卵する。昔、日本で取れたボラは台湾よりずっと多かったという。1935年のデータによると、日本国内ボラの漁獲量は台湾の十倍もあった。
中村孝志さん(1910~1994)が書かれた「オランダ統治時代の台湾南部のボラ漁業」の中に「…中国南部の人たちはボラとそのお腹にある鱲子(カラスミ)が好物である…」と記されている。台湾のボラを食べる文化は中国東南沿岸からの影響と推測される。オランダ統治時代(1624~1662)の基本史料《ゼ―ランディア城日誌(熱蘭遮城日誌)》に、課税対象として、初めてボラの旬の時期の漁獲量が記録されている。
楊鴻嘉さんの研究報告によると1673年に、既に中国から、ボラを狙った漁師たちが移民として高雄市旗津区に居留したとされており、台湾のボラ漁は明帝国の時代から始まったことがわかる。
ボラ食文化の起源
中国科学院の李思中さんによると「河南省安陽市殷墟(古代中国殷王朝(BC1600 - BC1046)後期の遺構・2006年に世界遺産に登録)にある厨房の廃棄物の中に、ボラの骨が入っている」;「これにより、三千年前の中原地方は既に貢ぎ物か貿易の品物として、ボラなどの魚介類が食べられるようになったことがわかる。」と記されている。
李時珍(1518~1593)が書いた《本草綱目》には「東海に生まれ、腹には魚卵が満ち、黄色い脂肪が付いていて、旨みがある。東海沿岸の住民たちに珍味として扱い、塩で漬け、保存食としてまた冬に食用する」とある。李氏(李時珍)により、唐朝の劉恂が述べていた東南沿海の住民たちがボラの卵巣を好んで食していたことを証明したと言える。ただし、こちらに論述しているボラ卵巣の塩漬けは、今のカラスミとは、食感、貯蔵などの点には大きく違っていると思われる。
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