2015年5月2日 星期六

臺灣人説的魚故事 序文② 日本語版  著者 荘健隆

  私の母は、大正九年(1920年)、日本統治時代の25年目に東京で生まれたので、名前には「京」の一文字が入っている。その後、母は東京のドレスメーカー学院(現在の学校法人 杉野学園)で二年間勉強していた。そのお陰で、母は日本語の読み、書き、会話がとても上手だった。逆に、北京語はうまくできなかった。私がまだ子供の頃、母はよく「桃太郎」や「浦島太郎」や「かぐや姫」などの昔話を教えてくれたものだ。息子として、自分の作品を母に読ませたい思いは募る一方である。台湾にいる日本の方々も、台湾の魚文化に興味を持つ人、更には、最近の日本人の方々の台湾旅行ブームにより、グルメだけではなく、日本と台湾の文化交流の歴史もお知らせする価値があると思うようになった。


  ある日、桜花日台文化交流会の三岡さんを自宅に誘い、ランチをともにした際、カラスミを食べてもらった。私は三岡さんに、カラスミの製造技術は1896年、日本の長崎の水産技師が台湾で指導、台湾で初めて製造し始めたと伝えた。彼は食べながら目を閉じて、ゆっくりゆっくり味わい、映画《マダム・マロリーと魔法のスパイス》(The Hundred-Foot Journey)で、料理を品評している場面でヘレン‧ミレ(Helen Mirren)が見せるような表情をしていた。その彼の料理を堪能する表情に実に感動した。



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