台湾カラスミの発展
台湾のカラスミの作り方や食べ方は、四百年以上前の安土桃山時代に明(みん)から長崎に伝来したもの。
形が唐の「唐墨」と似ているので「カラスミ」と呼ばれている。
台湾が未だ清の領土だった頃、台湾南部の漁師たちはカラスミの作り方に熟練していたが、完成品は粗末なものだった。
1896年、日本統治の始まった二年目に高雄で日本の長崎から来た水産技師が製法を改良。その後、カラスミの製法が一つの専門技術として確立された。日本では今やキャビア、フォアグラ、トリュフに劣らず、カラスミを世界三大珍味と見る向きもある。
台湾では、ボラを捌く際、カラスミ作りを重視し、大事な卵巣をいかに傷つけずに捌くかに注意をはらう。林宗源(詩人1935~)による1964年の詩に以下の内容が記されている。
(安平港から飛び出した夢の船、黒紅色の海面を走り出す。彼塔(あそこ)には
烏魚(ボラ)柱があり、烏柱は我等の銀行なのだ…)。
この詩が伝える意味は「漁師たちが酷寒に耐えて海に出で、海底から突き上がるボラの群れの柱の如き大群を追いかける。一網打尽にすれば、あっという間に大金持ちになれる。」
というわけで最後にボラの群れ柱を銀行に比喩したのだろう。
海面に浮いてきたボラを捕まえるのは簡単だが、海底に沈んでいたら、容易ではない。
だから、ボラ狩りの台湾の漁師たちが食事するときは絶対「底飯(台湾語de-bun)」
と言わず「添飯(台湾語tyam-bun)」と言う。
これはもちろん、ボラの群れが沈まず、水面に浮き上がってほしいという考えだ。
ボラの価値は卵にあるが、肉も美味である。
ボラの丸食い史
宋朝の《京口録》に「鯔魚骨軟」、明朝の馮時可が著した《雨行雑録》の中にもボラを「骨軟肉細(骨も肉も柔らかい)」とある。
明朝の詩人・孫陛氏が(当時詩人として最難関国家試験とされた「進士」)1534年にに作った詩〈鯔魚〉の中に、ボラはバラマンディより美味であると主張していた。バラマンディは一般的に手術後の上等な滋養食品とされているが、ボラはそれ以上の旨味があるという。この旨味が、ボラの養殖を早めたと言えよう。
明朝、河南省の黄省曽氏(1495年~1546年)が《魚経》に下記のように述べた。
「松之人於潮泥鑿池,仲春潮水中捕盈寸者養之,秋而盈尺。(松の人達が浜辺の泥沼に池を作り、仲春の潮水から体長が一寸ほど満ちたやつを獲って養殖する、秋になると体長は一尺ほどまで伸びる)」
「松之人於潮泥鑿池,仲春潮水中捕盈寸者養之,秋而盈尺。(松の人達が浜辺の泥沼に池を作り、仲春の潮水から体長が一寸ほど満ちたやつを獲って養殖する、秋になると体長は一尺ほどまで伸びる)」
豊かな水産資源から生み出された、抱卵ボラとカラスミの生産
1978年以降、台湾南部で「抱卵ボラ」の養殖を試み始め、1987年になってようやく成果が出た。1990年代から、台湾でのボラ養殖はもう「稚魚」だけでなく、一年大きく育った雌を選び出し、更に雌だけを二、三年育てあげる。これで「養殖魚」の卵巣から作ったカラスミの商業生産が始まった。その味も天然産に劣らないと言われている。
清、康熙帝の時代、陳夢林氏が著した《諸羅県志》の中に「(卵)薄醃曬乾,明於琥珀…(浅漬け後に干しだしたその艶は琥珀を上回る)」とある。ここで述べているものは、漬物ではなく現代のカラスミと近くなってきている。
清朝と日本の統治を経た、当時鹿港の人だった洪棄生氏(1867~1929)が書いた《寄鶴齋選集》の中に〈食烏魚五十二韻(ボラを食べる五十二種の風味)〉と言う一篇の詩があり、ボラの調理、商売、などについての描写が数多くある。
台湾では日常生活でボラを食すが、祭祀の時は、ボラを用いない。王豐氏の1980年の記載によると、台湾の人たちはボラを「神魚」、「天公魚(天神魚)」などの呼称で称えている。これらはひとつの意味深な神話が由来なのかもしれない。
その神話とは・・・
「水仙王」と言われる、あらゆる魚類を支配する神様がいた。その神様がいつも漁民たちからもらっている供養に感謝の気持ちとして、年に一度、同じ時期にボラの群れを台湾に率い、漁師たちに与えたという。
つまり、ボラはあたかも神からの贈り物のような存在になり、それをまた神に捧げ、お返しするのは、失礼な感じがするのだろう。
現代の台湾人の魚食生活を探求する上では、まず過去を振り返る事は不可欠だろう。
ボラが我々に与えてくれた歴史、文化財を理解し、大事にすることが、今を生きる力にも繋がるのではないか。
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